聖ヨハネ会の歴史

創立者 戸塚文卿

明治25年(1892年)2月11日横須賀で海軍医少将、環海を父に12人兄弟の長男として誕生。
曽祖父は日本における西洋医学黎明期の第一人者であり、祖父は日本赤十字社の設立に貢献、父は佐世保海軍病院の医院長在職中、ロシア艦隊ロジェストヴェンスキー提督を手術した軍医総監でした。

明治37年東京暁星中学校入学、42年同校卒業後、一高東大医学部で学び、外科学を専攻、卒業後文部省より北大助教授に任命されると同時に英・仏・独国に最新医学の研鑽を積むために2年間の留学を命じられました。ヨーロッパへの旅立ちが戸塚医師にとって終生の司牧を決意する旅路になろうとは、彼自信夢想だにせぬことでした。

ロンドンの短い滞在期間中、自らの前に忽然と開かれた世界に対する心の決断を下すために戸塚医師はそう長い時間を要しませんでした。
当然ながら両親はこの選択に反対し、忍耐とともにその理解を得るために祈る日々の中で彼はカトリック司祭として己が心身を神に捧げる決意を堅固なものとしていきました。

師はロンドンで『東京にカトリックの病院を建てて、医者としてまた司祭として働くつもりです。僕は毎日、僕と一緒に働いてくれる人を与えて下さいと神様に祈っています。』と言われたように大正14年帰国すると直ちに病人の体と魂に献身する司牧の医師としての活動を開始しました。
『聖ヨハネ汎愛病院』『ナザレト・ハウス』『聖ヨハネ医院』『海上寮』を次々に開設し、単に病気を癒すことだけでなく『カトリック病院』(神の家)の名の通り、愛と祈りの病院を作ろうとしたのでした。師の医療活動は後に『桜町病院』となって結実しました。
師は、医療活動のみならず、執筆活動に力を注ぎ、数々の翻訳をはじめ『カトリック新聞社』初代社長に就任した他幾つかの雑誌の主筆を務め、その文筆活動はめざましく、多大の業績を残しました。東京カトリック大神学校においては、自然科学を教えました。

師の献身的な活動に共鳴する人々と共に、当時苦しんでいた多くの結核患者さんのために、寝食を忘れて働きましたが、過労のため心臓の疾患で度々発作に見舞われ、昭和14年(1939年)8月17日、桜町病院の建設中、その完成を見ずに47歳の若さで天に召されました。

昭和14年(1939年)師の帰天後、桜町病院の経営は師の意志を受け継ぐ聖ヨハネ修道女会の手に委ねられて、昭和21年4月岡村ふくを創立者として宗教法人の認可を受け、桜町病院および諸福祉事業の経営母体となりました。

その後社会福祉事業法の制定に伴い昭和27年5月には社会福祉法人聖ヨハネ会が発足し、医療施設は第2種社会福祉事業として位置づけられ、その他知的障害者施設、老人ホームなどの事業の発展に努めております。

略歴

1892年(明治25) 2月11日横須賀市稲岡にて誕生
1916年(大正 5) 東京帝国大学医科大学卒業(銀時計の授与)
1921年(大正10) 英、仏、独留学、パストゥール研究所にて組織学研究
1924年(大正13) パリにて司祭叙階
1925年(大正14) 帰国。聖ヨハネ汎愛医院 <荏原郡品川>開設
1929年(昭和 4) ナザレトハウス開院
1931年(昭和 6) 海上寮(うなかみりょう)開院 <千葉県海上郡>
国際聖母病院、初代医院長就任
1937年(昭和12) 桜町病院の候補地、小金井を土井大司教と共に初視察
1938年(昭和13) 桜町病院予定地は小金井に決定。募金趣意書配布
カトリック中央出版部長、日本カトリック新聞社々長就任
1939年(昭和14) 桜町病院、上棟式
5月12日桜町病院の病室へ
5月18日土井大司教、桜町病院祝別
6月16日ローマ教皇ピオ12世より、見舞い電報届く
8月17日帰天(享年47歳)

歴史写真館


1925年 聖ヨハネ汎愛医院<荏原郡品川>


1926年 聖ヨハネ汎愛医院<洗足分院>


1939年 初期の桜町病院 鳥瞰図<小金井>


初期の桜町病院


1940年頃の桜町病院室内

1940年頃の病院内の様子


1943年頃 晴雲寮を見る この頃は畑に囲まれていた


1963年(昭和38) 西ドイツのカトリック慈善団体ミゼレオの援助で本館(現南棟)を新築